「温泉療養部会の基本構想」
高橋亨
「人々の暮らしを見据えた構想」
平成十四年、温泉の効能を具現化したいとの思いから立ち上げた、温泉療養部会。
「鳴子を訪れる人々に、元気を取り戻せる環境の準備」という基本構想の根幹には、次のような想いがあります。
それは、根っこの部分を“人々の暮らし”を見据えたものにし、実践を通してわれわれの考えをアピールしていくというものです。
この世に存在する全ての思考及びそれに導かれた活動は、それがどのような方向性を持ったものでも、
その根底になければならない基本的発想は「人々の暮らしを見据え、それを今よりましな未来へと実践を通じて繋げていく」
というものでなければなりません。
現代社会のひずみ、それを生み出す原因を解明しようとするとき見えてくるもの、
それは、「人々の暮らしがないがしろにされ、効率優先の競争社会に生き残るためのシステム作りに終始し、
その結果勝者になることが義務付けられ、誰もが到達する権利のある“今よりましな未来”は色あせたものとなり、
その結果としての疲弊した現代社会」ではないでしょうか。
こうした今を生きる人々に対し、元気を取り戻せる環境を準備することで、社会のひずみを少しでも是正できればと思うのです。
温泉の三養を明確に打ち出すことによりゆがみを正し、併せて伝統的地域文化である湯治の再構築に繋げたいと考えたのです。
保養 「原点回帰」
このような現代社会を見つめたとき、余りにもあふれすぎたモノにより、本来の人間性が埋没している構図が浮かんできました。
簡潔に言えば、“人とモノとのあいまいな関係”です、単なる物に留まらず人の構築した様々なシステムをも含めてですが。
そこで、保養を次のように定義付けました。
「物質優位の生活にあまりにもなじみすぎた結果、本質を見失いかけた人々へ、原点への回帰を。」
休養 「良い意味での不自由さを」
このように、人が作りだしたモノたちに囲まれた現代生活は便利で快適に違いありませんが、
代償として多くのものを失ってしまったのではないでしょうか。
本来の姿から遠く離れてしまった自然界の現象、更には社会を形成する人々の暮らしがそれを如実に物語っています。
無くても生活するには一向に困らないモノを作り続けることで、自然界の摂理を超越したかのような錯覚に陥っている今の暮らし。
多くの人が、他人の用意した選択肢の上に胡坐をかき、為すことといえば“エンターキーを押すだけ”の毎日。
結果として、身の回り三尺の範囲内ですべてがまかなえるような今の暮らしぶり。
更に周りを見渡せば、優しい人が少なくなってしまった今の社会。
その対極として“決して便利ではなかったであろう、一昔前の不自由さに満ち溢れた循環型社会”があります。
ものが無くても、優しい人たちがお互いを思いやりながら暮らした一昔前の社会です。
大事なものたちと折り合いをつけながら時を紡ぎ、今日の労働が明日の糧に間違いなく繋がると信じられた、
確かに存在した一昔前の緩やかな社会。
そうした時代にあったものは、“真に必要なもの”を見極める“社会全体の知恵”のような気がします。
今大切なことは、“便利なことの裏側にある不自由さ”を“良い意味の不自由さ”に変換することで、
精神的豊かさを取り戻すことではないでしょうか。
「現代生活の利便性に対し疑問を感じながらも、それを捨てきれないでいる人々へ、よい意味での不自由さを。」
この考えを、訪れる人々と地域の人々が共有できるとき、まさしく鳴子が休養の場になりえると考えるのです。
療養 「復元」
ものの生まれたときの姿かたち。
時がたつにつれそれはさまざまな影響を受け、いろいろな形をとり始めます。
しかし、形を変えていく過程で、そのものは何かを発し続けていたのではないだろか、、、と、いつも私は思うのです。
ものはもの自体復元する力があり、その内なる声を聞く努力を人たちが怠り続けた結果、
大事な何かの軸が少しずつ狂い始めてしまったのではないでしょうか。
人の在り方も同様に考え、“もって生まれた能力の復元”を温泉力で現実のものにしたいと思います。
実現に向けて 「温泉地としての磁場」
以上のような考えを基に、地域の再生を図るにはどのようにすればよいのでしょうか。
一長一短に出来ることではありませんが、考えるヒントとして「磁場」というものがあると思います。
温泉地としての磁場をどのように燻り出していけばよいのかということです。
まず考えられるのが、受け入れる側の地域の体制だけでは磁場を発生することが出来ず、
来るお客さんの姿勢というものも大事な要素になるということです。
客の姿勢とは地域に対する“期待”であり、地域の体制とは、それらに対する“応え”に他ならず、
この両者が互いのテーマを共有し得たとき初めて磁場としての温泉地が燻り出されてくるのではないでしょうか。
一次産業が社会の根底を支えていた時代には温泉文化という名の下、自然発生的な磁場が全国いたるところにありましたが、
時代の変遷とともに磁力が低下し、回復のために様々な仕掛けが用意されるようになりました。
磁場を燻り出すための、客の欲求をくすぐる仕掛けです。
曰く、露天風呂。日帰り温泉。回遊式湯めぐり。観光造語の非日常などなど。
しかし、このような時代の欲求に迎合したくすぐりは、社会の表層を漂うだけでいつの時代でも“不定形”なものです。
今日、大多数の旅行者に支持されるこれらの仕掛けが、暮らしの本質に根ざした“定型”になりうるでしょうか。
否。
「湯治」という、心と体の健康を取り戻すための、人々が長い時間を掛けて作り上げた定型ともいえる仕組みに、
不定形はあくまで不定形のまま漂うだけではないでしょうか。
客の欲望、時代の欲求に応えるための様々な仕掛け作りもいいのでしょうが、
地域を育んでくれた「温泉」の有り様を根底から考え、そこに住む皆の共通言語にする努力こそが、
魅力ある温泉地作りに繋がるものと強く思います。
もっと具体的にいいます。
昨年の暮れに来たお客さんが、今年再びやってきたときのことです。
今度はお友達を連れての大所帯だったので、新規に宿帳を持ってお部屋に伺いました。
一通り記入し終わったところで、そのおばあさんが周りのお友達にこういったのです。
「お風呂から上がったら、水一杯ですよ」
そうして、私に向かってにっこりと微笑みました。
前回来たときの私のアドバイスを、きちんと覚えていてくれたのです。
温泉を介在したお付き合いが、次回により大きな輪になって戻る。
こんな小さな積み重ねを、時間を掛けて急がずにゆっくりやることが、湯治場の再構築につながっていくと考えているのは、
私だけでしょうか。