湯守
平成20年
4月24日
永いこと湯守を御覧頂き、ありがとうございました。
引き続き御覧になる方は、
これをコピー.アンド.ペーストして「ジャラン.宿ログ」より、お入りください。
今後とも、宜しくお願い致します。
3月18日
地域を挙げてのプレゼンテーション力の向上であるべきなのに、
それをするのはここに住む人であるはずなのに、
素材を体よくまとめて「ハイ、おしまい」では...
風景の中に織り込められた人々の暮らし、
折り合いをつけながら守り続けた景観、
その中で醸成された独自の温泉文化、
主役はいつもいつも人であったはずなのに。
そなん人たちが訪れる人たちと作り出したざわついた空気を、
もう一度取り戻すべきではなかったのか..今。
人と人の関係を根底に据えない事業の日の目を見るはずがないことに、
いつになったら気づくことやら..虚大な鳴子。
人を絡めずして、良いたびの提案が出来るはずないのに。
2月13日
情報は咀嚼を拒むかのように流れ流れ、
舞い上がる感覚が一切の認識を拒絶して踊りに踊り、
創造の魂を疎外する批判だけが情報として認められるならば、
沈黙が唯一の武器。
耳塞ぎ、
心閉じ、
言葉研ぎ、
実態の裏側に潜むもの見るとき、
嫌悪と疲労と狂気の笑い声だけが虚ろに響く24時間。
締め付けられた神経の開放は、まだか。
2月4日
自分が提案しようとしているモノを、それは誰にも出来ない、自分だからこそ提案し得るモノだと、人はいう。
褒めているのだろうが、自分にしか出来ないモノだと誰もが言うが、誰もそれを実行しないのは、何故だ。
民意を得てからだと、ある者は言う。
実行することで、利益が一部の者に偏る危険性があると、ある者が言う。
これが、実態だ。
観光地.鳴子の、今の姿なのだ。
そして、新市.大崎の現実なのだろう。
誰が来るか、こんな所に。
恐る恐る手探りで、前にいるものの腰紐を握り締めながら歩むことしか出来ないこんな場所に、誰が来るというのか。
決断と、果敢に攻め込む勇気のないところに、新たな概念の誕生はない。
平成19年
10月30日
怒っているのかもしれない
景観の名所として全国に名を馳せた所が
今 猛烈に怒っているのかもしれない
頼り切って
他には何もしなかったものたちに
猛省を促しているのかもしれないというのに
さほどの研鑽もせず
のうのうと算盤だけをはじいてきたものたちに
牙を剥いて見せたというのに
悲しいかな 誰もその牙に気付くものなく
姑息な手段を弄し
稚拙な方法で またしても酷使し始めた
旅するものの感動
その本質を知らずして 何を慌てて整えようとしているのだ
未整備の荒々しさほど 心に残るものはないというのにだ
傲慢な無知ほど 怖いものはない
10月26日
ネット予約を始めた。
予想に反して、情けないくらい、客の出だしがよい。
何が情けないのか。
これでしか集客できないことへの情けなさ。
とりあえず、一時しのぎの、暫定的存続法。
「うちだけはこんなはずではなかったのに..」と思いながら、今日も忙しい。
忙しさの中、忘れてならないことは、いつでも元に戻れる体制の柔軟さ。
それにしても...だ。
9月3日
人は自分の存在を認めてもらえば喜びに変わり、
その逆の場合は憤懣の塊と化し、
いつまで経ってもそうであれば関係の遮断へと発展する。
ことば ことだま 言葉の誕生以前の前言語状態。
何故、人は人を褒めないのか。
あるいは褒め方がこうも下手に成り下がったのか。
もっと褒めれば褒めてもらっただけ自分に帰るものもあるというのにだ。
たとえば家族。
いっぱい褒めればいっぱい福が来るというのに。
「いつもありがとう」
「今夜の食事、美味しいね」
「今日もきれいだよ」とまでは言い過ぎとしても、感謝の想いを笑顔で示せないものか。
社会でこれが浸透すれば、少しはましな暮らしが出来ると思っていたら、
今日のテレビで落語家がおんなじことを言っていた。
9月2日
心の中の静かな沼に
ひっそり浮かんだ落ち葉が一枚
それを言うなら いつか見た風景
ゆらゆら ゆらゆら ゆっくり沈み
水を含んで 情景へ
いつしかすとんと 底まで沈み
汚れることなく 心の一部になりました
秋のはじまり
心象という名の 記憶の芽生え
8月31日
久しぶりの、仙台。
狭い、穴倉のような安宿を取り、夜の街に出かける。
歩きながら感じる仙台の風。
変わってしまった。
すっかり、東京になってしまっている。
もっとも、東京の資本が来ての変貌を思えば当然のことではあるが。
コーヒー屋に入り通りを眺めれば、目の前は新宿歌舞伎町。
けばけばしい男女が肩で風切って歩いている間を、帰宅途中のおじさんたちが遠慮がちに通り過ぎる。
目を中に向ければ、椅子に座った人たちはみな仮面をかぶり、誰も何も話さない。
物思いにふける人、タバコを立て続けにひねりつぶしては待ち人を思う人、静かに流れる音楽に耳傾ける人、開いた本の文字を一心に追いかける人。
その中にあって自分はただの異邦人と化し、やはり仮面をかぶっていたのだろうか、皆と一緒に。
「ねえ、ねえ、何か話さない?何でもいいから話さない?
あなたは誰で、私は誰で、
何処から来たのか、何処へ行くのか話してみない?
あなたの言葉が私に届き、私も言葉をあなたに届け、そんな言葉で一緒に何処かへ旅してみない?
旅の切符は優しい言葉、誰でも持ってる優しい言葉。
ほっぺにたまった言葉の数々、今宵一緒に吐き出しましょう.....」
誰も、何も、吐き出さないのを知りながら、ただただコーヒーをすすっただけの仙台の夜。
8月24日
ここは最上 村山の地
月がポッカリ浮かんだ夜は
徳内さんを今年も偲び
天まで届け笛太鼓
笛と太鼓に誘われて 心ウキウキ 体ムズムズ 思わず足が駆け出した
通りに居並ぶつわもの達
それを見守る最上っ子
いました いました 祭りの主役
ヒトに聞けばガッコの先生
子供と一緒にこの騒ぎ
子供の指導にご尽力
定年退職 ご苦労様
子供だって 負けてはいない
山車に上ったこの二人
威勢の良さは最上一
マイク片手に お囃子背負い 声振り絞り 掛け声いけいけ天まで届け
「いける いける いけてる わっしょい」
汗撒き散らし 今宵の刹那に賭ける命の美しさ
最上の夜のひと時を
俺の心が舞い躍る
徳内祭りの馬鹿騒ぎ
刹那に燃える 最上っ子
8月22日
何々があるから行ってみるか。
行ってみたらたいしたことでないので、もう行かない。
偶然行ってみたら、こんなのがあった。
思ってもみなかったことなので、また行きたい。
この違いなんだよね、出会い 発見 知る仕組み。
これがあるところは、強いのです。
7月10日
会議 会議 会議
域内 活性 生きない
本質 乖離 困難 回避
安易 迎合 間に合わせ
内容 不純
主客顚倒 主語不在 動詞拡散
死語滅裂
茫漠たる不毛の感
蓄積疲労決壊の予感
沈黙
6月21日
最近はじめた、携帯ナビ.人間GPS。
早速稼動。
「チョッと行き過ぎたのでしょうか..今、鳴子の駅前なんですが...」と、不安な様子が伝わってくる。
「大丈夫です。私の携帯をお教えします。」
早速かかってきましたね。
「もしもし、今スタンドの信号ですが、ここを右ですか?」
と、やや自信を取り戻したような声。
「えーと、日石のスタンドですね。そこは、右折してください。
5分くらいで、交番が見えたら、また右折です。」
ころあいを見計らい道路に出てみると、やってきました。
なんと、安心感からか、ニコニコ笑っているお客さん。
”交信”の力...です。
実際いろんなところに行くが、知らないところで迷うことの不快[目的地が決まっているときは余計に増す]は、無い方がいいに決まっています。
だから、こんなたわいもないことですが、はじめてみれば喜ばれるのです。
6月20日
最近気になることがあり、
それは、数年前に自分のことを人づてに聞いたコトバ。
「温泉療養で人は呼べない」
何故、今、その言葉がよみがえり気にかかるのだろう。
人の脳の働きの精緻さと、コトバの領域[思考]を超越した深い沼の底を覗き込む思いがする、わずらわしくもあるが。
”ヒトヲ ヨブタメニナンカ シタツモリモナイシ
ソレデ ヒトガキタコトガ ヘンダッタシ
ヒツヨウトスルヒトガイタカラ ソノヒトノタメニ シタダケノコトナノダ”
覗いた沼から、こんな声が自分にだけ聞こえているような気がする。
6月19日
道の駅が好きだ
歩いて三分のところにある いつも車でいっぱいの道の駅が好きだ
いろんな車が止まっていて
いろんな車が入ってきて
いろんな車が出て行って
いつもいつも車がいっぱいの 道の駅が好きだ
駅の中の人の顔を見るのが好きだ
入ってきたときの運転手の顔を見るのが好きだ
出て行くときの運転手の顔を見るのも好きだ
みんなこれからどこに行くのだろう
みんなどこから来たのだろう
顔を見ながら そう考えるのが好きだ
5月29日
日々狂い
隔離された闇に憧れ
同類を爬虫類に見出す脳
季節ならざる空のせいにすれば
ギラリとした朝日の蘇生
眩し過ぎる塊の 理由無き西方への落下
再度の闇
蛇がクツクツと笑いやがる
5月28日
蛇というものに心引かれ
あの形 色 動作の一つ一つ
その 秘めた内なるものに思いはせるとき
魔性か ただの細長き生命体か いまだ応答無し
土に潜り息潜め 出番待つ おぞましき魔性の塊
濁った息して 貪る夢 展開の果て無き漆黒の闇
5月24日
ぬかるみを 泳ぐ足のその先に
一塊に形整えた 蛇ひとつ
尾を震わせて 語るべきこと有りや無しや
じっと目を見る
しばしの対峙
そおっと手にした棒切れで 塊絡めて救い投げれば
見事なまでに澄み切った青空背にして
のたりくらり 声も出さずに飛ぶ蛇ひとつ
ぽしゃんとする音 ひときわ高く
耳に聞こえる五月の田んぼ
5月22日
カエル、ケロケロ
青大将、ぬったり
ツバメ、ひゅーんひゅん
足音、ポッカポカ
お日様、ギラギラ
水、ヌルヌル
山、青々
気持ち、ほんのり
田んぼ、デロデロ
植えなおし、スイスイ
農の良いとこ、独り占め
5月20日
嫌な思いをさせて、ゴメン
君がそんなこととは知らなかったのだよ
普通にしてて普通でいたから普通と思い普通にしたこと..それだけなのだよ
それにしても、ずいぶん何度も聞き返すものだ..とは思った
本屋さんの店員の割には、作家の名前も知らずに不勉強なやつだとも..正直思ったよ
そして、君が立ち上がった瞬間君の胸元にあったプレートを見て、すべてが判明したのだ
何度も聞き返したり、あらぬ返事が返ってきたり、ペンと紙を差し出し作家の名前を書くよう要求したり、
困りきって私の顔を見たり、必要以上に顔を近づけたり...君という状態が判明したのだよ
普通じゃない君に、普通のことをしてしまった私が恥ずかしかったよ
ゴメンな..また今度行くから、笑顔で迎えてよ...
私も、普通に、普通じゃなくするから..
4月10日
やっと、やっと、永い戦いが終わり、
結果、惨敗を喫してしまったが、
多くの人の集まりにすがすがしさを感じたり、どろりとしたものを覗き見てしまったり、
しかし、戦い終われば夢のまた夢。
2月の20日、一本の電話で呼び出され、
50日の永いお祭りが、今終止符を打つ。
放りっぱなしの家業の宿屋も、少しは順調に推移して、
昨日今日と雑用に追われていたら、ムックリ鬼が起き出した。
朧な夜に 鬼を見た
地の底深く横たわり 渇きに吼える鬼を見た
傍にはサラサラ水の糸
口まで運ぶが満たされず
飢えた渇きは癒されず
突然 口から火を吐いた
真っ赤な舌を突き出して
大地にボコリと穴を開け
空から雨を溜め込んだ
ゴクリ ゴクリ ゴックリ ゴクン
ゴックン ゴクリ ゴックリ ゴクン
やがて 鬼の股根から
琥珀色した温水が 地上めがけて駆け昇り
私を地上に吐き出した
目覚めた処は床の中
渇きに吼える 鬼の夢
哀れ地の底横たわる 誰も知らない鬼の夢
朧な夜の 胸騒ぎ
2月8日
やりたいこと 出来ること 客のニーズ[今の日本の観光客.今の川渡の客]に関して皆で話し合おう
やりたいことの素材は何? それを基に出来ることを形にしたとき現れるものは何?
そして、それらは客のニーズにマッチしているの?を皆で考えて提案しよう
提案したなら、三つのクロスするところを川渡に落とし込もう
落とし込む材料を、客が「元気良くやるところ」と「ボーっとできるところ」に区分けして、川渡の中に具現化して行こう
すぐに出来ることは、すぐにやってみよう
すぐに出来ないことは、誰かに相談してパートナーになってもらおう
パートナーに相談するときは、「どうして、やりたいのか」を、きちんと言えるようになろう
「だから、やりたい」という時に、「それをすることが誰にとってどうなるのか」ということまで考えてパートナーに相談しよう
そして最後にもう一度、「やろうとしていることが他にないものなのか、絞った客のためになることなのか、
そのために使う川渡の素材が益々生き生きとしてくるのか」をじっくりと考えてみよう
そしてこれらの提案が、いつの日か社会全体の提案になるまで継続しよう
2月6日
DCで来町する客の多くがシニアとした場合、シニアへの旅行商品の売れ筋は「温泉旅行」が全体の75パーセントを占めている。
[国土交通省調べ]
次にウエイトの大きなものとして「周遊旅行」が58パーセント。
今売り出しの地産地消の延長線上にある「グルメ旅行」は23パーセントに過ぎない。
今後の旅行者の年代を考慮しながら鳴子の観光商品構成を考えたとき、鳴子の温泉とそれに付随する周辺観光、
さらには食するものの質の高さは共通のアイテムに成り得ると考える。
そこで、自分たちのやりたいこと、自分たちで出来ること、旅行者の求めていることを総合的に考えることが大事になってくる。
キーワードを絞るとすれば、温泉.周辺観光.食に落とし込むことが出来るのではないか。
この3つのアイテムをどのように組み合わせ商品化するのか、そしてそれをどのように提供していくのかが重要な点。
もう一方で、「なぜこれらのアイテムを提供することが大事になってくるの?」ということも考えていく必要がある。
温泉は他にもあるし、周辺観光に優れたところは鳴子以上のものが他にたくさんあり、食することに関しては一流レストランにかなわないだろう。
だが、鳴子のこれらのアイテムをどうして取り上げなくてはならないのか?
あえて言えば、これら3つのアイテムは仮説にしか過ぎず、それを実証することで地域の元気を取り戻すことが出来るのではないかと考えるから。
鳴子の本質に迫るために仮説を設定し、実証することで唯一無二の証明を打ち立てていくというのが私の考え。
やりたいことを共通のテーブルで生み、出来ることと出来ないことを峻別し、
それは、やらなくてはならないこととやらなくてもいいこととの峻別といえなくもなく、
それらを客のニーズに照らし合わせながら商品構成していくというのが、私の考え。
2月5日
日々の仕事の中から生まれたひらめきを思いつきというのなら、
それを温め形を変えて思い入れ。
温めすぎて度を越して、
思い込みになってしまえば皆に嫌われ変人扱い。
思うに、
程よい思いが丁度良く、
それがなかなか難しく、
ギアをバックに入れ直し、
再度スタート発車オーライ。
皆に思いを披露して、
賛同を得ながら感じた責任の重さ。
2月3日
温泉地としての地域の再生を図るには、どのようにすればよいのでしょうか。
一長一短に出来ることではありませんが、考えるヒントとして「磁場」というものがあると思います。
温泉地としての磁場をどのように燻り出していけばよいのかということです。
まず考えられるのが、受け入れる側の地域の体制だけでは磁場を発生することが出来ず、
来るお客さんの姿勢というものも大事な要素になるということです。
客の姿勢とは地域に対する“期待”であり、地域の体制とは、それらに対する“応え”に他ならず、
この両者が互いのテーマを共有し得たとき、初めて磁場としての温泉地が燻り出されてくるのではないでしょうか。
一次産業が社会の根底を支えていた時代には温泉文化という名の下、自然発生的な磁場が全国いたるところにありましたが、
時代の返還とともに磁力が低下し、回復のために様々な仕掛けが用意されるようになりました。
磁場を燻り出すための、客の欲求をくすぐる仕掛けです。
曰く、露天風呂。日帰り温泉。回遊式湯めぐり。観光造語の非日常などなど。
しかし、このような時代の欲求に迎合したくすぐりは、社会の表層を漂うだけでいつの時代でも“不定形”なものです。
今日、大多数の旅行者に支持されるこれらの仕掛けが、暮らしの本質に根ざした“定型”になりうるでしょうか。
否。
「湯治」という、心と体の健康を取り戻すための、人々が長い時間を掛けて作り上げた定型ともいえる仕組みに、
不定形はあくまで不定形のまま漂うだけではないでしょうか。
客の欲望、時代の欲求に応えるための様々な仕掛け作りもいいのでしょうが、
地域を育んでくれた「温泉」の有り様を根底から考え、そこに住む皆の共通言語にする努力こそが、
魅力ある温泉地作りに繋がるものと強く思います。
もっと具体的にいいます。
昨年の暮れに来たお客さんが、今年再びやってきたときのことです。
今度はお友達を連れての大所帯だったので、新規に宿帳を持ってお部屋に伺いました。
一通り記入し終わったところで、そのおばあさんが周りのお友達にこういったのです。
「お風呂から上がったら、水一杯ですよ」
そうして、私に向かってにっこりと微笑みました。
前回来たときの私のアドバイスを、きちんと覚えていてくれたのです。
温泉を介在したお付き合いが、次回により大きな輪になって戻る。
こんな小さな積み重ねを、時間を掛けて急がずにゆっくりやることが、湯治場の再構築につながっていくと考えているのは、
私だけでしょうか。
1月20日
曲げることできねぇものばっかし背中にどっさり背負いこんじまって、、、。
曲げるつもりもねぇのに曲げる振りしたり、
一時しのぎの曲げでナンかがどうなるものでもねぇのなら、
この期に及んで曲げが一体なんぼのものやら。
ここで曲げたら次の背伸びがはずっかしくて出来ゃしねぇ。
と、その昔ビートルズが”フール.オン.ザ.ヒル”で詠ってたような、、そうでねぇような。
てめぇの言葉は、所詮、てめぇの耳にしか聞こえねぇってことよ。
1月19日
さてさて、最後にたどり着くのが鳴子の玄関口.川渡。
川渡までは、どこを歩こうか。
国道沿いは車がいっぱい、都会並みの忙しさだ。
仕事中のドライバーの皆さんには悪いが、私たちは、都会にはない穏やかな、円やかな、そしてたおやかに流れ行く時を求めて鳴子に来たのだ。
あれ、そんな想いにピッタリの道があるではないか。
のどかな田んぼの中の一本道だ。
「山学校」って知っているだろうか。
子供のころによくやった、学校に行く振りして悪がきと一緒に日がな一日野っ原で遊びほうけていた、学校よりも面白かったところだ。
秘密の基地があるかもしれない。
見たこともないような虫に出会うだろう。
想像力を駆使して、どんどん純な世界に遊んで見るのも一興だ。
いつの間にか、空っぽになって行く自分というものを発見するかもしれない。
そんなステージが鳴子には腐るほどあるのだ。
遠くで手を振る誰かがいる。
昔遊んだ弘子ちゃんかもしれない。
行ってみよう。
心は、はるか昔の鼻ったれ小僧と、おませな少女になっている。
だが、声の主に近づくと、そこにはひげの濃いおじちゃんがいた。
敏一先生の登場だ。
続く
1月14日
そこから、素敵な鳴子の、下町風の通りをご案内。
通称“山道”という処。
上り詰めれば、源泉の煙たなびくマグマの鼓動が皆を待ってましたとばかりに、湯気をモウモウお出迎え。
更に歩いて目の前に広がる、摩訶不思議、えもいわれぬエメラルドグリーンの地下につながるポッカリ開いた“潟沼”のしとやかな佇まい。
おもてなしするのは、恥ずかしさ極まりなく紅色に染まった葉の連なり。
どうだ、参ったかと言わんばかりだ。
これが鳴子の昔っからの原風景。
潟沼の歴史、地質学的な意味、それらを、今は無き昔の大人たちから伝授された老人がボソボソ語り始めれば、
巡礼者感極まり地にひれ伏すかも知れない。
「鳴子に来てよかった」の大合唱が聞こえるようだ。
さて、泣くのはまだ早い。
せっかく潟沼に来たついでだ、尾形ケ山に登って凧揚げをしようではないか。
山頂は信じられないくらい風が強いのだ。
手にした凧をいったん離せば、ヒュラ〜ル.ヒュルヒュルどこまで飛ぶかわからない。
糸を放さずしっかり持つことさえ難儀なことになるかもしれないのだ。
どうだ、風の音が聞こえるだろう。
懐かしい風の音だ。
はるか昔の自分が見えてきやしないだろうか。
懐かしい香りの風に、遠い日の誇り高かった自分を、いっぱい胸を開いて感じてほしい。
そのために鳴子に来たのだから。
それが、鳴子のおもてなしなのだから。
何もないけど、「精一杯のおもてなしをしなさい」と、温泉が教えてくれた町だから。
そして、おもてなすのは、そこに住む人たちだから。
凧揚げにはしゃぎまくった昔子供たちがたどり着いたのは、湯治場の風情を色濃く残す全国屈指の湯治場.東鳴子だ。
見上げれば、線路の脇に立つ瀟洒な建物。
なんと、JRが地域のやる気のある若手のために奮発した駅舎ではないか。
行ってみよう、何かあるかもしれない。
どんどん鳴子の良いとこ喰ってしまおう。
勇んで行けば、なんとそこにあるのはレトロな世界。
おじいちゃん.おばぁちゃんに手引かれて尋ねた、昔ながらの湯治場があるではないか。
ゆったりのんびり湯治の世界に浸るのもよし、鯉のあらいに舌鼓するもよし、御殿湯のいわれに耳傾けるもよし、過ごし方いろいろの東鳴子だ。
さてさて、最後にたどり着くのが鳴子の玄関口.川渡。
1月13日
「ゆき渡り」の監査後、佳宏君.奥さんの恭子チャンと一緒に、dcについて話し合う。
鳴子温泉五社回廊の話しをしたら、面白いアイデアを出してくれた。
お客さんは巡礼の姿をして歩き、その姿を見かけたら、地元の人はお茶の一杯を振舞うというもの。
そこから、自分のイメージが広がった。
振る舞い場所を神社に詳しい、あるいは地域の観光.文化.歴史的事情に詳しい商店に設定すれば立派な民間インフォメーション施設になり、
地元の名産品も買っていただき、商売繁盛につながるというもの。
チョッとの親切が売り上げアップになり、更にサービスをすればお客さんにも喜ばれるという仕組み。
巡礼コースには、様々なものが見えてくるはず。
地下にうごめく温泉のルートが、そのまま巡礼のコースになりはしないか。
五社回廊というくらいのものならば、そのまま温泉マグマに導かれての巡礼になるはず。
これは、活かせる。
巡礼は必ずしも歩くだけでなく、車でもいいことにしよう。
歩きたい人は歩き、無理な人にはほかの手段でもいいはず。
目的は、鳴子の歴史の根底にあったはずの、温泉の営みを感じてもらうこと。
巡礼グッズを考えてみよう。
四国巡礼ほどのものでなくとも、地域間連携を活かして岩出山特産の竹の傘に竹の杖。
出来れば、神輿を担ぐときの法被。
ところで、スタートをどこにしようか。
やはり、鬼首が最右翼。
地質学的に見ても、鳴子の温泉の元である片山地獄あたりに設定し、田代川を歩き、荒雄神社でゴールというのはどうだろう。
そこに待ち構えているのは、若い神主“哲夫君”
明治天皇所縁の名馬「荒雄号」の楽しい解説が待っているのだ。
そこからは車に揺られ、鳴子温泉神社に到着。
途中のダムで、その構造の摩訶不思議体験するのも一興だろう。
更に、発電所に立ち寄り電気の発生を目の当たりにすれば、エコに対する考えも新たなものになるかもしれない。
鳴子の公共施設、人の暮らしに役立つ施設をどんどん利用しよう。
鳴子温泉神社に待ち受けているのは、疲れを癒す「とろろ酒」。
一杯戴き、再びスタート。
でっぺクラブの案内で逸品を楽しむもよし、湯めぐりチケットの活用は温泉三昧殿様気分。
1月10日
他人への依頼体よくあしらわれ、ざらついたものが終日体内を駆け巡り、先程ぽとりと体から出た。
自分とはキャッチボール出来ないということか。
幻想が壊れた後にのそりとツラ出した現実の、なんと薄っぺらなことか。
姫神聴きながら飲む焼酎、
良い気分で暖められた時空駆けめくる思いのほうがはるかに、
現実の失望を凌駕している。
それは、目ん玉の奥の絵の展示会。
生涯の刹那に出会った風景が、まるで走馬灯のように流れては消え、あるいは浮き沈みしているのだ。
そんな時、ふと思いがよぎる。
これからは二度とそのような風景に出会うことはないのだろう。
そうしてこれからは沈んでしまった風景をせっせと自分は拾い続けるに違いない。
その絵をどうするというあても無いままにだ。
1/2
今年の秋、いよいよ鳴子が試されるときがやってくる。
観光地.鳴子なのか、温泉場.鳴子なのか、その答えを出すときがやってくる。
それに備えた動きが、鳴子の各地でさまざま出はじめたようだ。
鳴子峡のライトアップのための会議。
通年通行のための企画。
アクセスの問題、等々。
また、山奥の集落では、地物野菜を利用した料理講習会も盛んに開かれているようだ。
さらに新しい年を迎えて、それぞれの思惑がそれぞれの形で、しかしながら残念なことに地域.鳴子としての統一を欠きながら出てくる気配を感じる。
これは、いけない。
組織がしっかりしないところで何をやっても、上手くいくはずが無いのだ。
やるなとはいわないが、やる前にもっとしっかりした目的の確認作業というものがあるはずだ。
それは、受け皿の一員であることの認識だ。
観光協会というものが在るのに、五つの地域でばらばらにすき放題なことをして、どのように鳴子を発信できるというのだ。
鳴子の悪い病気が出る前に、杭を打たなくてはいけない。
平成18年
12月28日
これは、平成19年10月〜12月の3ヵ月間、鳴子に来るお客さんに様々なジャンルの観光を体験していただくというもの。
観光窓口に問い合わせれば、行きたい場所にご案内、鳴子の旬を現場体験。
このための窓口は、特別に設定。
各ジャンルの専門家を一名選出し、ジャンルごとの窓口に配置し業務に当たる。
ジャンルはすなわち、鳴子の情報を発信している各団体。
各団体が、交代制で窓口業務を担当するという仕組み。
お客さんは、あらかじめ予約が必要。
行きたいスポットや会いたい達人を窓口に問い合わせれば、担当者が懇切丁寧にご案内。
決定した予約の内容を、現場おもてなし担当者に連絡しておくので、体験当日のご案内はいともスムーズ。
現場までの足をどうするか?
そこで登場するのが、素行クン。
相乗りタクシーの機動性を遺憾なく発揮。
足りないときは、民間タクシーの大活躍。
レンタカーを利用すれば、JR大喜び。
現場に到着したお客さんは、おもてなし達人との水入らずの空間にご満悦。
さて、料金をどうするか。
おもてなしのジャンルによっては、有料無料の設定が必要。
これは、おもてなし達人のおもてなし内容を詳細に打ち合わせするときに決めていくこととする。
有料の場合は宿泊料に上乗せし、後日集計して達人に支払い。
無料の場合でも、期間終了後、実行委員会からの御礼は忘れずに。
そこで達人の紹介に入る。
達人たち
[温泉堀師]遊佐忠宏.猪股秀雄
[湯守]高橋勘一.旅館の旦那たち
[湯治の業師]
[伝統工芸の業師]菅原和平.漆工房潤
[たんぼの業師]中鉢守.高橋公.上野建夫
[畑の業師]山が旬の市.こいこい市場
[食の業師]楽遊会
[逸品の業師]でっぺクラブ主催者
[暮し達人]伊藤松一.高橋敏幸.鬼首のお年寄りたち
これで終わりかと思えば、まだまだ続く。
なんと、鳴子の地下にうごめき雷同する熱きマグマと遊んでみようという大事な部分が残っているのだ。
源泉の揚湯管に耳を当て、地下の息吹を聴いたことがあるだろうか?
なんともいえない軽やかな、そしてリズミカルな音が聞こえてくるのだ。
地下深くから湧き上がる温泉の音が、「チリチリ チリチリ」と、一定のリズムを伴いながら聞えてくる。
それは、数十年前に降った雨や川からの浸透水が、マグマに温められ、様々な鉱石をイオンに変身させて湧いてくる音だ。
時たま聞える「ボコッ ボコッ」という元気な音は、ガス成分が溶解する音に違いない。
「チリチリ ボコボコッ」と年中変わることなく湧き続ける音を聞くたび、この温泉をご先祖様はどんな思いで掘ったのだろうかと、遥か昔にタイムスリップしてしまう。
この大地のエネルギーを、鳴子を訪れるお客さんに見せたいと思うのだ。
源泉を守りながら皆と一緒に今日まで歩み続けた、今の鳴子の大事な姿を見せたいと思うのだ。
こんな途方も無いことは誰も考えなかったに違いない。
しかし、しかし、やってみれば今まで見えなかったものが、あるいは見え隠れしながらも、つかもうとしてはスルリとその手から逃げてしまったものたちを、捕まえることができるかもしれない。
問題は、「どう見せるか」ということ。
そこで、温泉の生成とその流れを具現化している鳴子の地形の探検だ。
ある日こんな思いが頭を掠め、言葉の網で捕らえてみたら以下のようなものになった。
「温泉を、見たいと思う。
50ミリの源泉湧出口に入り込み、どんどんどんどん地下にもぐり、温泉の元までさかのぼってみたいと思う。
湧出温度は57度だが、1メートルもぐるたびに温度は上昇し、とてもとても耐えられないかもしれないが、とにかく、なぜか、温泉の元まで行きたいと強く思う。
体が溶けてなくなってしまうかもしれない。
皮膚が溶けて、内臓が溶けて、目も脳も溶けてヒラヒラになってしまうかもしれない。
だけど、とてつもなく、人一倍、性懲りもなく温泉の元にたどり着きたいのだ。
思うのだか、そこにはとても大きな、怖い顔をした温泉の神様が居て、いつもいつものどの渇きに飢えていると思えば、神様の欲しいものは一滴の水かもしれない。
水は雨? それとも川から浸透する濾過された純粋なH2O?
神様ののどを潤すには、一滴だけで足りるはずも無く、もっともっとたくさんの水が必要に違いない
やがてのどの渇きに我慢できなくなった神様は、赤い火の粉を口から噴出し、大地に大きな口をあけ、降りしきる雨を口の中にいっぱい溜め込みゴクリと飲み干す。
たらふく水を飲み込んだ神様は、生理現象をもよおしたようだ。
地表に向けていき酔いよく放出したオシッコは、さまざまな岩石を溶かして、イオンを内包した体に心地よい温泉に姿を変え、今日も人々の暮らしに役立っているのかもしれない。」
これを形にするにはどうするか?
ヒントは鬼首から川渡までの地形と、その上で営まれる暮らしの原風景、まさに素ローカルなるこの姿だ。
これを今までとは違う形でお客様に提供できないものか。
鳴子に来るお客さんに提供できるものは、温泉の生成に関する体験を通した知識の享受と、それを支える自然の営み、そしてその中に暮らす人々の生き様。
温泉の上流鬼首から下流の川渡まで、そこに住む人々の暮らし、更には周りを取り囲む優しい風景を開示できれば、これまでにないすばらしいものが出来るはず。
飾る必要も無く、ありのままの姿を一つ一つコツコツと整えて、商品一つ出来上がり。
地熱発電所のゴーゴーとした音の不気味さ、
、
出来ることなら温泉掘削の現場体験、
荒湯地獄の荒涼とした大地の営み、
そこで演じられる神楽や太鼓の縁の響き、
清流田代川の澄んだ優しさ、
そこにひっそりと生きた年を重ねた人々の心にしみる言葉の一つ一つ、
その年寄りのおもてなしはコガの下の宝物、
見よう見まねで必死に学ぶ若い奥さん、
獲れた米のみずみずしい輝きと噛んだときの香ばしさ。
少し下れば鳴子ダムの発電の仕組み、チョット下って温泉街で土産の下見、更に下れば昔ながらのひなびた湯治宿の連なり。
鳴子に来るということは、鳴子を知るということにほかならず、知ってもらう仕組みを作り上げれば、来る人はもとよりそこに住む人々も楽しみが増えるというもの。
そこで大事になってくるのが、提供するスポット作り。
以下のことを考えてみた。
スポットへの誘導
@
鬼首[地熱発電所 荒湯地獄 田代川など ]
A
鳴子[ダム 発電所 デッペクラブ 下駄も鳴る子 街角コンサートなど]
B
中山平[鳴子峡 芭蕉ルートなど]
C
東鳴子.御殿湯[潟沼 イベント様々など]
D
川渡[散策路 祥雲寺金蛇様伝説 シソまきラリー 芭蕉ルートなど]
E
なるこ温泉五社回廊[五地区に鎮座する温泉神社めぐり]
これを基に、史上初の一大ページェントにしていきたいものだ。
12月18日
温泉を、見たいと思う。
50ミリの源泉湧出口に入り込み、どんどんどんどん地下にもぐり、温泉の元までさかのぼってみたいと思う。
湧出温度は57度だが、1メートルもぐるたびに温度は上昇し、とてもとても耐えられないかもしれないが、とにかく温泉の元まで行きたいと強く思う。
体が溶けてなくなってしまうかもしれない。
皮膚が溶けて、内臓が溶けて、目も脳も溶けてヒラヒラになってしまうかもしれないが、
とてつもなく、人一倍温泉の元にたどり着きたいのだ。
思うのだか、
そこにはとても怖い温度の神様が居て、いつもいつものどの渇きに飢えていると思えば、神様の欲しいものは一滴の水かもしれない。
水は雨? それとも川から浸透する濾過された純粋なH2O?
神様ののどを潤すには、一滴だけで足りるはずも無く、もっともっとたくさんの水が必要に違いない。
やがてのどの渇きに我慢できなくなった神様は、赤い火の粉を口から噴出し、大地に大きな口をあけ、降るしきる雨を口の中にいっぱい溜め込みゴクリと飲み干す。
たらふく水を飲み込んだ神様は、生理現象をもよおしたようだ。
地表に向けていき酔いよく放出したオシッコは、さまざまな岩石を溶かして、イオンを内包した体に心地よい温泉に姿を変え、今日も人々の暮らしに役立っているのです。
以上の独りよがりな空想から推し量り、
鳴子に来る人々に提供すべきものは、温泉の生成に関する体験を通した知識の享受と、それを支える自然の営み、そしてその中に暮らす人々の生き様。
温泉の上流鬼首から下流の川渡まで、そこに住む人々の暮らし、更には周りを取り囲む優しい風景を開示できれば、これまでにないすばらしいものが出来るはず。
飾る必要も無く、ありのままの姿を一つ一つコツコツと整えて、商品一つ出来上がり。
地熱発電所のゴーゴーとした音の不気味さ、出来ることなら温泉掘削の現場体験、片山地獄の荒涼とした大地の営み、清流大谷川の澄んだ優しさ、
そこにひっそりと生きた年を重ねた人々の心にしみる言葉の一つ一つ、
その年寄りのおもてなしはコガの下の宝物、見よう見まねで必死に学ぶ若い奥さん、獲れた米のみずみずしい輝きと噛んだときの香ばしさ。
少し下れば鳴子ダムの発電の仕組み、チョット下って温泉街で土産の下見、更に下れば昔ながらのひなびた湯治宿の連なり。
鳴子に来るということは、鳴子を知るということにほかならず、知ってもらう仕組みを作り上げれば、来る人はもとよりそこに住む人々も楽しみが増えるというもの。
これが、私の考える鳴子の商品化。
11月13日
磁場というからには引きつけ引きつけられる関係が有り、
どちらかが強い場合その関係の持続性に問題が生じ、
継続を考えた場合適度な引きつけ合いが好ましく、
引きつける側はたゆまぬ努力を、
引きつけられる側にすれば羽目をはずさぬ節操が肝要。
磁場を発生させるための燻る仕掛けに大事なことは、
不定形な擽りではなく、
定型に限りなく近い”抉り合い”、
しかも、根底に安心感のある”抉り合い”こそ必要なことではないかと近頃思う。
明日14日は恒例の東川院参り。
毎年一度心地よい抉りを確認するのです。
11月8日
子猫が捨てられていた。
うっそうとした杉山を車で走っていたら 道端に何かの生き物、
通り過ぎてから子猫と気づき急いでバック、
居た。
道端に一つ すぐそばの藪の中に三つ。
泣き声もあげず 近づいた自分に寄り添うこともなく、
奥に何かを宿した弱々しい眼差しで、
じいっと自分を見つめる四つの生き物。
「俺だってどうにも仕様がないじゃないか 見つめないでくれよ、
君たちは捨てられて たまたま俺が見つけただけなのだから、、、。
だからといって そこから何かが始まることもないのだから、、、。
頼むから 通りすがりの俺をそんな目で見てはいけないよ。
俺から言えることは唯一つ、
生きるか 死ぬかなのだよ。
生きたければ 移動して活路を開けば良い、
そうでなければ そこに居て何かの餌食になるしかないのだよ」
昨日、商工会.市会議員との懇談会があり、上のようなイメージが頭の中をグルグル回り続け、
成熟型経済社会の中で猫を捨てたものは誰か、捨てられた猫とは何かを無言のうちに思い続けていた。
今は、良い時代ではない。
モノがあっても心の冷えた時代は、決して良い時代ではない。
11月4日
昨日、駐車場が有料化された鳴子峡へ行ってみた。
10キロ以上ものろのろ運転で、”たどり着いたら500円”という状況がどんなものかを見に行ってみた。
駐車場係りとドライバーが取っ組み合いの喧嘩でもしているのではないかと思い、そうならばドライバーに加勢するつもりで行ってみた。
ところがだ、みんなきちんと係りの指示に従い、続々としかも列を乱すことなく整然と駐車場に入っていくではないか。
イチャモンの一つや二つあるだろうと期待していただけに、拍子抜けだ、、、内心ホッとはしたが、、。
しかし観光客、心の中は面白いはずもなく、歩いている人の顔を見れば皆がブスッとした表情で、腹に一物あるのが見え見栄だ。
鳴子を代表する大きな観光的磁場が、たった財政難の500円で燻られて、変に焦げ付かなければいいのだが、来年以降その答えが出るに違いない。
10月31日
湯治場の三本柱。
その一つ一つが機能的に絡み合い、全体としては三本の総和以上のエネルギーを発揮するような、その一つ一つの柱。
”磁場”というようなものと、いえなくもない。
これは、受け入れ側の体制だけで作れるものではなく、
来るお客さんの姿勢も大事な要素になってくるのではないか。
客の姿勢とは宿に対する”期待”であり、宿の体制とはそれらに対する”応え”にほかならず、
互いのテーマを共有しあえるときに期待と応えが燻って、磁場が発生するのだと思う。
そしてこの燻りあいは時代の流れに影響され、「露天風呂」だったり「湯めぐり」だったり観光造語の「非日常」だったり、人の欲求を多少なりともくすぐるものである。
多少のくすぐりは、人にとってその本質に根ざしたものとは言えず、社会の表面を漂うだけで、いつの時代も不定形だ。
今日、大多数の人が支持するこの不定形なものが、本質に根ざした定型に変わりえるか。
否。
湯治という、心と体の健康を取り戻すために人々が長い時間をかけて作り上げた定型とも言うべき仕組みに、
不定形はあくまでも不定形のまま漂うだけである。
只今、当館の滞在客は定型支持者のみで、妻と安心して紅葉見物に出かけてきました。
白石の材木岩。
このあと二人は、新潟近くの赤芝峡へと足を伸ばしたのであります。
途中、野生のサルに出くわし、二人でキャッキャキャッキャとサルそのものになってしまいました。
良い一日です。
10月28日
商工会監事研修会で、為になったこと。
商工会三本柱というべき核があり、組織.事業.財政を指すそうだ。
経済社会の成熟化.地域経済の疲弊等、三本柱を脅かすものたちを外部環境というらしい。
その一方に、自身の抱えたさまざまな課題、組織率向上.まちづくりへの提言などが有り、それらを内部環境というそうだ。
内部環境を整理統合し、且つ又外部環境から身を守るために、三本柱をどのように構築していくかがテーマだという。
この論理展開に当てはめて、湯治場の復権を頭の隅で考えていた。
湯治場の三本柱とは?内外環境とは?
考えてみるとさまざまなものが見え隠れするが、三本のうち一本は誰がなんと云おうと温泉。
その温泉の話を聞きに、山ひとつ超えた隣の村から大勢のお年寄りたちが来てくれた。
「このまえの あんだのはなす おもせがったおんねゃー、まだ きぎさきすたぁ。おゆっこも たのすみだおんねゃー」
10ヶ月ぶりの再会におばあさんたちの顔がほころび、刻まれた皺はまさにマスクメロン状態。
”暮らしの中の温泉の役割”を中心とした話に熱心に耳を傾けてもらう中、
鋭い質問にこちらがたじたじになったり、冗談言って笑わせたり、
何とか勤めた一時間半。
その後、持参のおにぎり、漬物、煮つけなどをほおばりながらお部屋で休憩。
笑い声が絶えることなく聞こえて、ほほえましいご一行様でした。
過疎といわれる地域を、女性の立場で精一杯支えてくれたお年寄りたち。
いつまでも、健康であってほしいと願った一日でした。
10月25日
稲も刈ったし、お客さんの注文米も届けたし、少しはお金も入ったし、そして今日はざーざー降りの雨だし、幸いにも客の出入りも無いことだし、
そんないろいろな”たし”や”だし”をいいことに、
妻と二人で雨の中山形まで紅葉見物、、、どうせおいらは変人だし。
昼に食べた親子丼、ブルーベリーで表面をたんまり飾ったチーズケーキ思い切り美味しく、
どんなものがどんな割合で入っているのかも知らない液体不思議に美味しく、
多分に卵とミルクの調合の妙というものなのだろうが不思議に美味しく、
ちぐはぐな取り合わせに胃も満足しながらハンドルを握れば山形の木々が赤く染まり二人を出迎え、
川を走る濁流までもが二人をにぎやかな声で出迎え、
街はいつもよりしっとりと濡れて、
隣の妻までその余韻に詩たっているようで、
ついでに立ち寄った本屋で買った一枚のシーディー。
都会で過ごした自分の苦さを凝縮したような調べに夜更けまで耳を傾け、
今日も一日が終わるということか、、、。
自分を酔わせるものの多さを日常のさもないときに頻繁に感じる今日この頃。
歳、、、かな。
10月24日
地元商工会の監事をやっている。
年に一度の監事研修会があり、久しぶりの仙台行き。
夕方四時まで缶詰状態。
興味のある話が多かったが、もっと興味があったのは、県の担当職員のえもいわれぬ雰囲気。
何を言っているのかわからないような小さな声で、
始終時計ばかり気にして、
一時間の持ち時間を十分前に切り上げ、
語りかけるべきわれわれを見向きもせず、
微笑むことひとつ無くぼそぼそと、
目を下に下ろし原稿の棒読み。
余った時間を質疑応答に当てるものの、質問者なし。
彼の費やした時間と、そこに居た自分の時間の質量ばかり考えていた。
答え。
彼は、仕事が嫌いなだけなんだ。
地域の活性化を担うべく商工会の在り様を一言も語ることなく、
時間の消費に専念していた彼は、
この仕事が生来合わないだけなんだ。
そんな彼が、指導監査と称し各地の商工会を監査しているのだ。
そして、判で押したような文言でいちゃもんをつけている。
ふざけちゃいけない。
逆に、彼の仕事を監査してやってもいいくらいだ。
時間があればの話だが。
おあにいさん、年季の入った監事をなめちゃあいけないよ。
10月18日
おめげっつぁん。
ぽかりと浮かぶ まあるい月は
秋の夜空の幻灯会。
一人ぼっちの寂しいウサギ
お前は なぜなぜ一人なの。
今宵一晩 秋の味覚をたらふく味わい
お前の寂しさ分かち合う。
瓶にはススキ まわりを飾った葡萄に栗にサツマイモ
たらふく食べておなかが満ちても お前はやはりさみしかろ。
まっかな目から 涙がぽろり
みんなで掬ってあげましょう。
寂しいウサギとおめげっつぁん
静かに暮れる 秋の夜。
10月17日
昔、
一つ屋根の下に大勢の女たちが居て、
それぞれがそれぞれの生い立ちを背負いながら嫁ぎ来て、
それぞれのやり方で一家の気風になじみ、
母となり、おばあちゃんとなり、おっぴさんとなり、
みんな、男たちのために身を粉にして働き、
互いに励まし、互いに戒め、互いに自分らしく生きていたころ、
季節季節のささやかな祭りがあり、
身の丈のものを備えては、
今の幸せに感謝していたような、
そんな風景が心の中のあぶくとなって、
ある晩、空を見たらまんまるお月様、
あぶくがはじけて、ひとつの絵になった。
心象となった風景を掬ってみたら、
甘酸っぱい懐かしさと、ほろにがい思い出が、
言葉になってぽろぽろと自分の跡に落ちていた。
おめげっつぁんが落ちていた。
10月15日
心の中にひとつの風景が行き来するとき、
言葉の網で一気にそれを捕まえては周りを包みこむ。
出口を失った風景は、網の中でさまざまなものに変質し、やがては情景へと高まる。
そうしたころを見計らって、そぉっと網を解けば、情景は心象に変わっていた。
分かり易く、簡潔に、少ない言葉で心象を書き連ねたとき、
心地よく心象の中に佇む自分が見えた。
幼いころの風景が、
もの心つけば情景になり、
大人になって心象として心に沈み、
日々、言葉でそれらを掬ってみれば、
この目に焼きついた昔の風景も救われるかも知れない。
心の中には、いくつもの風景が宿り、
静かな叫び声を上げているのだ。
10月14日
それは 遥か昔の季節の香り。
暮れ逝く夏を惜しむように
蝉の声は今よりざわめき高く
畑のトマトをガブリと齧れば やるせないくらいの生臭さ。
畝をはみ出た真っ赤なイチゴは 甘いと思えば微かに酢いて
もぎ取った胡瓜のみずみずしさ。
けだるさ染みついた日々に ひとつ蹴りを入れ
身についたもの全て剥ぎ取り
川に潜れば
朧に見えた 濁った未来の果てない連なり。
不安に溺れて頭を出せば
木々の間に間に見え隠れする ギラつく太陽。
体に刻んだ確かな夏だ。
幾つもの思いを心に刻み、
少年たちは いつも いつも 季節の向こうへと旅立つのです。
10月13日
背に腹は変えられないという
それも伝統ある宿がいま苦しいからといって背に腹は変えられないという
”おかしい 可笑しい やっぱりお変しい”
だとすれば昔の在り様はなんだったのか
あれだけの勢いというか傲慢というか穿った気取りというか
全てそういうものを統括した逆説的存在感は
今どうなのと迫られて
苦しくないのか
恥ずかしくないのか
背信の自覚は無いのか
ツラの皮一枚まとっただけで済むと思うのか
まとって足りなければまたまたまとうのか
まとうたびに失うものがあるとすればそれは何か
金に換えられぬプライドではないのか
あるいは個人の理念
はたまた全人格
それさえもモノに変換して自分を殺して自分に負けて
それでいいのか
無神経の塊となって
それでいいのか
現代の子守唄は確信犯の同一コードで進行するとしても
恥ずかしいと思わないのか
そんな子守唄を歌えると思うのか
恥を置き去ったところにイデアを育む素地があると思うな自惚れ屋
10月12日
今年のはじめの寒いころ、
川渡よりもっと寒いところに住むお年寄りの方々に温泉の話をしたことがあり、
二時間という長い時間何を話してよいのかも分からないまま引き受け、
とりあえずは基礎的知識の導入から始めるべきか。
それだけではいかにも学識経験者のようで自己嫌悪に陥る可能性無きにしも非ずで、
此処は一番湯治宿のオヤジを前面に出した面白おかしい経験談しかネタは無いと心得、
あること無いことない交ぜにしながらやっとこなした長丁場。
高橋亨先生という紹介も他人が呼ばれているようで実感が無く、
横断幕にいたっては冷や汗のかきどうし。
奮起一番、
お湯を授かった我が家の歴史的事実、
それが地球のどういった構造から湧出するのか、
その成分の持つそれぞれの人体に与える影響、
その結果人はどうなるのか、
そして、湯治文化が暮らしにどのように溶け込んできたのか、
湯治文化の推移から見た社会の様変わり、
そこに生きる人々の心のあり方、
望むべくは心と体の健康、
お風呂に入ってみんな仲良し、万歳万歳。
多分、そんなことを山菜炊き込みご飯風に、テンコ盛り状態で話したと、今になって思う。
そして先日、主催者から一本の電話があり、その続きをして欲しいとの事。
しかも、会場を当館に移し、お風呂に入って昼ごはんを食べながらだという。
二月に蒔いた種が、今芽吹いたということか。
二月の謝礼が心づけ。
今度来たなら、実収入の有料化といえるのではないか。
フムフム、、、ことを高めるとは、こういったことなのでしょうか、、、。
10月4日
あまりお客さんにサービスのし過ぎをしてはならないという声があり、
無料のサービスは逆に商品価値を下げてしまい、
望むべくは金を払ってでも参加したくなる商品だという。
確かに一理ある。
ふんぞり返った商売さえ出来そうな気もしてくる。
そこで、無料とは何かと考える。
客にしてみれば金を払わないということ。
サービス提供者には当然金が落ちない。
しかし、しかしだ。
本来金をもらうべき商品を、あえて無料にしてでも提供したいということがあってもいいのではないか。
無料にしてでも提供したいという思いを、無料の裏に感じてもらえれば、それでいいのではないか。
あまたある観光商品、はじめから全て有料とは限らなかったはず。
無料の裏に隠されたたゆまぬ努力がひとつの形になったとき、金を払ってでもいきたくなる商品に生まれ変わったのではないか。
金を払ってでも来てもらえるようにはなりたいが、何もしないでそのようになるわけも無く、大事なことは高めようとする意思。
好きで無料にしているわけではないのだ。
9月3日
たとえば人とはじめてあったとき 姿かたちを見るように
知らないところへ行ったなら
あなたは何を見るのでしょう。
初めて目にした信州小布施。
初めて目にした夕日の海。
初めて目にした西音馬内の夜。
いつも目にする故郷の夕暮れ。
知らないところへ行ったとき
初めて感じて
ずうっと残るは
いつになっても
人の暮らしと 大地のいとなみ。